埋蔵金小話(その1)
こんにちは,四十雀です。
さて,今回ご紹介します埋蔵金ネタは,福島県に伝わる話となります。
天正17年(1589年),磐梯山麓にて米沢の大名・伊達政宗と会津の大名・蘆名義広の軍勢が激突,政宗がこれを破ります。
敗走した義広は本拠・黒川城(現:会津若松市)から実家である常陸国(現:茨城県)の佐竹氏の元に逃げますが,その際,城から軍用金を持ち出します。
しかし,追手の気配を感じたため,途中にある猪苗代湖にその軍用金を沈めた後,常陸国へ無事に逃げ延びたのだと言われています。
この話は割かし有名だったそうで,昭和初期になると,蘆名氏の子孫を名乗る人物(系譜上,蘆名氏の血筋を引く者は伊達氏に仕えていた。)が猪苗代湖を探索,これが大騒ぎとなり,結局司直の手により止められたと言われています。
ところで,このような軍用金,本当に存在していたのでしょうか。
政宗に滅ぼされた蘆名氏は会津一円を支配しておりましたが,その領内,実は,鉱山が存在していました。
その代表的なものとして,
ⅰ高玉金山
天正元年(1573年),蘆名氏により開山。最盛期には日本三大金山と称された程有力な金山だった。
ⅱ軽井沢銀山
永禄2年(1559年),蘆名氏により採掘開始。日本屈指の銀山と称された。
があります。
領内に有力な鉱山を有する蘆名氏,これらの山々から産出する金・銀で軍用金は賄えたのかもしれません。
ただ,蘆名氏の中で勢力拡大に努めた蘆名盛氏の時代,永禄3年(1560年)~天正4年(1576年)の間に,6度も徳政令(金融業者・債権者に債権放棄・免除を命じた法令)を出したとも言います。
蘆名氏自体は経営する鉱山からの収益で軍用金は賄えたものの,その家臣団は金融業者・債権者に債権放棄や免除をしてもらわなければならない程,困窮していたのでしょか? なんだか相反する話のような・・・そう考えると,本当にそんなに多くの軍用金が存在していたか(ある程度はあったと思いますが。)ちょっと疑問にも感じます・・・。
ちなみに,現在,猪苗代湖は国立公園に指定されているため,大規模な調査や発掘はできないとのこと。
今も湖底に財宝が沈んでいるのか,残念ながら詳細は定かではありません。